頭の中がうるさい

散歩とか音楽とか

町田洋の漫画の切なさはなんなのか

単に過去を振り返ったときに感じる懐かしさとは少し違った懐かしさ、自分では経験してないのになぜか自分のことのように感じるアレ。

夢の中でもう会えない昔の友達や恋人に会った感覚に似てるかもしれない。

そんな朝はすぐに電気をつけたりなんかできない。なるべく光を浴びないように覚醒しないようにして、その世界にまた戻れることを、その世界がずっと続くことを願いながら目を閉じる。現実、現在という感傷が混じらない世界の侵食をなんとか先送りにしたいと思う。

便座カバーが嫌いだ

汚れを防ぐためのものなんだろうけどあれがあることで余計に汚らしく見える。ダメなタイプの生活感。清潔感を出そうとして逆にあらわる不潔感。自分ちのならまだいいけど人んちにあると便座からケツ浮かせたくなる。なんか生々しいんだよね。しかもあれ装飾的目的で使ってる人もいるじゃないですか多分。百歩譲って汚れ防止はわかるとして装飾目的でやるセンスはマジでいやだなあと思った。どうせ固定電話にもフリルのカバーつけてる。

 

てなわけで便座カバーを使う奴の気がしれない。

 

とまで思っていたけど気が知れた。

 

見落としていた昨日に気づいたからだ。(変換ミス。なんか歌詞っぽくなった)

あれは汚れ防止と装飾だけが目的じゃないらしい。冬に座って「ひゃっ!」ってならないためのものなんだと。あれは確かにまあまあのストレスだし毎日受けるストレスだし温め機能の付いてない便座だと確かに黙って耐えるほかないものね。うちの便座は温かかったから気づかなかった。

 

ずっとあの冷たさに耐えた後に使う便座カバーは結構感動的なものかもしれない。そういうことならなんかまあ許すわ。

 

 

 

生活水準を一度あげてしまうと戻すのは難しい

と語られるとき想定されてるのは大抵の場合、住居とか食べるものの水準であるように感じるけど、時間的余裕こそ一度上げると戻しづらいものなんじゃないか思う。

目覚ましかけずに眠りについて好きな時間に飯を食う生活は中毒性がある。
いやただの中毒なら問題はない。やばいのはそういう生ぬるい生活の中でモノの価値観とか性格が形成されてしまったときだ。大学時代くそぬるい生活をしていたくせに普通に9時5時週5日(これでもホワイトなんだろうけど)で働けてる人とかを見ると意外となんとかなるのかなとか思っちゃってたけど彼等は生ぬるさが価値観、性格にあまり影響しなかっただけなのかもしれない。

自分が自分であるということにひどくうんざりしてしまう

自分の選んだ行動、付き合った人たち、選んだコミュニティ、そこでの肩書、そういうもので自分が出来上がってしまう。無為に生きた今日が明日を作りその積み重ねで長い年月が出来上がってしまう。ただただ生きているだけで何かを選び何かを捨てて、そういうものが自分に絡みついたり足元に積もっていったりする。

全部なかったことにしたくなる時がたまにくる。もうこの自分はやめにして違うやつでやってみようなんて。もちろんそんなことできるわけない。自分の犯罪歴は消えないし家族は家族のままだし、人と関わってしまった事実は消えない。

 

でも自分にはどこか、こんな自分の人生が取り替えのきくようなものだと思っているフシがある。明日になったら違う街の違う誰かになって生きてられるんじゃないかっていうような。

 

自分より結構年上の大人と話しているとそんな気持ちがぶっ否定されて冷水を浴びせられたような気になる。こんな自分の人生がこの先何十年もどうしようもなく続いていくんだと、この自分でずっとやっていくしかないんだと、こうやって現実を直視したくない自分の延長線上に未来の自分が確かにいるんだと。そんなことが改めて認識されてひどくうんざりしてしまう。

 

もしかすると自分の人生に対するお客様感は死ぬまで消えないかもしれない。自分の人生はいつ始まるんだろう、なんて思ってるうちにジジイになって死んでしまうんだ。