よる日記

散歩とか音楽とか

BABY BABYとパーフェクトレボリューション

予告編の清野菜名の演技に(いやあれはただの器用な演技ではなくてあの人そのものの要素も強い気がする)心を奪われてすぐに近場の上映館を探した。その日はもう夜も遅かったので翌日の上映に行くことにした。

 

予告編が先にできてその後に本編が作られたのかと思うくらいなぞったような展開だったり、ところどころ話がうますぎたりと、引っかかる部分がないとは言えなかったが基本的に予告で受けたいい印象のままだった。ミツが本当に良かった。生命力に溢れていて嘘くささがなかった。

 

そしてやっぱりBABY BABYは本当にいい曲だ。リリーが原案の熊篠さんに劇中で使うことを勧めたか頼んだかしたらしいが本当に映画にマッチしていた。そして多分クマの気持ちにとてもマッチしていた。サビの”抱きしめてくれ〜”は男が歌う歌詞としては少し珍しいなとか初めてこの曲を聞いた中学生のとき思っていたが、世の中には愛する人を抱きしめたくても抱きしめられない人もいるのだ。「僕が何度きみを抱きしめたいと思ったか君はわからないだろう」曲の最後に歌われるこの歌詞も含めると本当にクマのために作られた曲みたいにしっくりくる。熊篠さんはこの曲の存在を前から知っていたのだろうか、もし知らなかったとしたら今回はじめて聞いてエラく感動したんじゃないだろうか。シザーハンズエドワードもこの曲を聞いたら泣いちゃうと思う。

 

もちろん峯田がこの曲を書いたのは映画ができるずっと前だし他の解釈もできる、というかいろいろな形で聞くことができるのがこの曲の優れた点の一つだろう。そもそも相手との関係的に抱きしめられるような距離になかったり、クマみたいに肉体的に叶わなかったり、関係的にも肉体的にも抱きしめられるけど、愛するものに対してBABYBABY的感情を抱くことだってあると思う。

だって、思うに、どれだけ愛を伝えたとしても自分の中に生じている愛情をすべて相手にぶつけることは不可能だ。言葉はすべてを表すことができるような完璧なものじゃないし体という枠に縛られている以上感じ方はどの人間間においても一致しない。誰かを愛し尽くしたなんて感覚を持てる人はいないだろう。そして、その愛の伝達の不可能を埋めるためにこの曲は作られ、もっというと芸術はこれまで作られてきたんだと思う。

 

 

ここのところ雨が続いている。傘をさしながら深夜のファミレスへ向かう途中、イヤホンで大音量でこの曲を聞いた。クマとミツのことを思いながら聞いたら胸が暴れた。

 

可愛い女の子との恋愛と銀杏BOYZ以外のすべてのものは消え失せたっていい、醜いんだから。

 

 

 

 

 

悲しみは消えてない

昨日夢を見た。
下北を歩くあの娘とすれ違った。
突然の再会に驚きつつも、スッキリとした顔でMAXの65パーセントくらいの愛嬌であの子は僕の名前を呼んだ。
隣には、爽やかに日焼けして人の良さそうな男の子がいた。
なんとか明るいトーンの声で「久しぶり」と返すことができた。
それですぐ別れた。

その後のことははっきりと覚えてないけど、とにかく涙が止まらなくなった。周りの人がいようがどうすることもできなかった。ダメになって以来一度も泣いていなかったのに。

やはり、本当は悲しかったのだ。あの子のことが好きだったのだ。


でも純度100パーセントの悲しみは、もう現実の世界では感じることができない。

これからも世界は色を失い続ける。

その場所で仕事を決める

やりたい仕事が見つからない、し本気で見つけようともしてない。なにか見つけたとてすぐに踏み込めない理由を一つ二つ思い付くだろう。このまま結局なにも見つけられぬまま(そもそも「見つけよう」としてること自体が誤りな気もする)決定の時期を迎えるのだろう。

それならそうとピタリと来る適職なんて探さずにとりあえず気に入った場所、そこに住んだとしてその地における自分の生活を愛せるような場所にある(もしくは場所を選ばずできる)仕事をやるのがいいのではないかという気がする。思うに俺は幸福度において場所、空間の影響を強く受ける方だ。人間関係なんかももちろん大事だけど、仮に一人ぼっちでもその場所なら気分よく暮らせるという場所なら見つけられるかもしれない。適職探しと適地探し、どちらが難しいかはわからない。両方同時に得られるのがもちろん最高だが。

適職も適地も諦めた人生のスタイルは旅にほかならない。それもそれとしてアリである。もうちょっと人生可能性が閉じてきたらその方向で本格的に考えてみようか。

俺はなにも成長していない

夕方から技能が二つ。
スローカーブをもう一球の一篇を読んだ。諦念とか現実の酸っぱさとかを全体的に美しく纏めていた。良かった。
異界が覗く都市を読む。アキラ、ナウシカ、2001年についての文章。やはりこのてのは興味をひく。
昼食時、現場監督をやっている30代の人と話した。食後も一緒に喫煙室へ行き、LINEを好感した。夕食はこの人のグループに誘われ一緒に食べたがみなさんまあ喋らない。これなら一人で食べた方がましだ。明日から一緒に食事するかと思うと思いやられる。
でも、よる少しいい気分だったので後輩のhちゃんに電話をしようと思う。素面は流石に怖かったので酒をいれにセブンへ急ぐ。ビール一杯じゃ不安で、部屋にある赤ワインを二杯くらい飲み準備完了。外へ出てダイヤルを押す。最初繋がらず五分くらい経って川の前の階段でタバコ吸ってると向こうからかかってきた。
川の話、実習の話、あのこの体勢の話、カズオイシグロの話などをする。
盛り上がらないではないけれど、やはりどこかうまく交わってない感がある。何が原因なのだろう。俺に関してはやはりキャラとか繕う感じがその根底にあるんだろうけどあのこはどうなんだろう。去年の夏に学科の友人の紹介で夏祭りに一緒に行った娘ともこんな感じだった。あの娘に対しては知り合いの紹介ということで変な手を出すわけにもいかずポジショニングが最後まで定まらなかったわけだけど今回も結局そうなのかもしれない。人との関係を何かしらの方向で離陸したい場合はとりあえずなにか具体的な物語に身を置く必要がある。それが美しいものと言えずとも。あの娘にもやはりそんな適当な手を打ちたくない。けどそうだとして裸でぶつかってどうにかなるような未来も想像できない。そもそも自分の裸なんてもはやわからない。どうしていいかわからない。

暇なときに何をするか

俺は暇になると飯を食う。食いたくなくても食う。自炊することも外に行くこともあるけど、自然に出てきた食欲がそうさせるのではない。食べたいから行動するのではなく行動したいから何か食べたいものを見つける、といった感じ。生活に目的が欲しいだけでおそらく内容はどうでもいいのだ。


退屈を直視するのはつらい。

バイトの休憩中である

定食屋でニラレバ定食食べたあと喫茶店に来た。

休憩の前一緒に入っていた女の人とちょいちょい話した。最後の方でマンションの明かりや人の家から漂う風呂の匂いがたまらなく胸に来る話をした。人の生活が胸に染み入る季節になったのだ。
ちゃんと話したことなかったけどやっぱりそういう繊細な感性を持っている人だった。他のおばさんたちと違って噂話もしないし。

バイトをやめるまえに話ができて嬉しく思った。

不安定で怠惰な心におさらばする

なんていうかまあ俺カスなんですよね、が最近の脳内の口癖。院試まで三週間を切った。そろそろ心を殺さないとやばい。でも今日の夜には素敵な女の子と大学で会う予定だしその前にはカウンセラーの先生にも会う。なんだか求める流れに逆行している。

 

目的本位に、雑念に縛られず死んだ心で生きなくては。それとちょっとのやる気と。まあそれは自ずとついてくるだろうから。