頭の中がうるさい

散歩とか音楽とか

書かないと文章力は落ちる

とか思ったけどそもそも文章力なんか微塵もなかった。

 

 

最近は何を考えているのか。一貫して考えていることはないようなきがする。毎日、その時時の状況に応じて快不快の快だけを選んで最近は生きている。ここに三日は時にそうで、これと言ってやるべきことがなかったから、何かを読んだり観たりして過ごしたけどその一つ一つに集中することはできなかった。

 

膨大に存在する自由な時間の中で聴きたいものを聴き、読みたいものを読み、食べたいものを食べる生活が理想的だという思いがいつもある。でもそう思うのはいつもそういう世界の外側にいるときだ。じっさい学校の長期休みとかには決まって何もせず無為に過ごし直接的に有意義な勉強とか訓練とかはもちろん小説読んだり映画見たり、感性使ってやる何かすらやらないことがほとんどだ。

 

普段行動する上でいつも思うのはなるべく自発的でいよう、外側から与えられた価値があるように見えるモノにはあまり飛びつかないでいようってことなんだけど、内発的な欲求なんか俺の中にはないのかもしれない。今好きなもの(小説とか旅とか)も普段の生活があるからこそ相対的に魅力を感じているだけで、普段の生活におけるやるべきこととか考えないといけないことが何もなかったとしたらやりたいことも何もなくなってしまうんだと思う。そうなったらもう動物だ。

動物になりたいとかたまに思うけど、もう今更なれないし人間だし人間である以上常に何らかの行動を求めてしまうんだろう。

 

 

またなんか書き始めと違うこと書いて終わってしまった

あの人の夢を見た

昔バイト先にいたあの人の夢を。

あの人のおじいさんとあの人が出てきて、おじいさんが居酒屋か定食屋かその両方みたいなお店をやっていたのでご飯を食べさせてもらうなどした。他にも色々したはずなのだがもう忘れてしまった。
僕もあの人もまだ思春期くらいの子供で、お互いの世界は今よりもっとシンプルだった。そこにはまだ
意地悪な白鳥も口うるさいカレンダーもいなかった。世界は今見ている世界がすべてであらゆるものは完璧な円の中で回っていた。
昔のあの人にあったことはない。ただ 昔の記憶を共有できたような感覚が残った。

目が覚めたときには外を雨が降っていて空は暗く、朝なのか昼なのかも分からなかった。

夢を見て起きたとき、雨が降っていると夢の余韻に長く深く、良く浸れる気がする。
今日は一日、夢のおかげでほんのりとした幸福感が僕をずっと包んでいた。

奥の細道を歩いている

昨日は元自衛隊のおじいさんに道ばたでいなり寿司と菓子パンとチョコレートをもらった。ありがたくいただいた。


毎日は宿に泊まらないので困るのが電源問題だが田舎のコンビニは今はたいていイートインスペースがあってコンセントが使える。田舎のコンビニ万歳である。

今はファミマでコーヒーとパン食べながらこの記事を書いている。外は雲一つない快晴、ひっきりなしに車が走る国道。何が楽しくて徒歩なんてやってるんだという気分になる。

これだから国道はいけねえ。歩くときはやはり歩きにあったスケールの道を選ばないと、といってもなかなか幹線道路以外の選択肢を選びがたい現状もあるのだが。
今やりたいのは川上りだ。小さな舟で流れの緩やかな川をゆっくり上りたい。

20230705加筆
前提として奥の細道全ルートを歩いたわけではない。
自分が歩いたのは、仙台〜石巻岩手県平泉までの120−130㎞だけだ

1日目:仙台駅〜石巻
夜行バスに乗って多分朝7時くらいに仙台駅に着いた。
駅前の半田屋でカツ丼を食べた。
国道沿いの道が続きつまらないなあと思っていたが
途中から自然の多いルート、川や田んぼの間を抜けるルートになって旅情が増してきた。
自衛隊のお爺さんにいなり寿司をもらった坂を抜けると団地があって間を川が流れていた。
多賀城をみて文化財の学校みたいなものも見て寺か神社を見ておまけに図書館にまで寄った。

ちょっと寄り道しすぎたところもあり塩釜から石巻まで電車に乗った。

2日目
石巻石巻
旧北上川沿いを歩いて北上した。
団地みたいなところを抜けて何かを思った。
途中から川を離れてミニストップで休憩、国道を北上。
日が暮れてきたので北上川の河川敷でテント泊。
石巻は治安が悪く暴走族も多いと聞いていたためテン泊場探しに少し迷って
川のすぐ近くのススキかなんかで囲まれた周りから見えないスペースにした。
焚き火を少しして寝た。
不安もあったためかあまりいい眠りでなかったたおもう。

最近というか今日

朝六時台に目が覚めてしばらくベッドの上でスマホをイジるなどした。今日やろうと思っていたことは結局何もしなかった。

スラックスの裾上げ

ローラー買いに行く

銭湯とファミレス

 

 

日記をつけることをしばらくやめた結果どうなっただろう

あまり本を読まなくなったか。たぶん無反省になるからだろう。禁欲的でない、なまぬるい日々

 

そういえば割りと人生変わるかもっていう重大なイベント(それ自体は悪いヤツ)が起きようとしたけど起きなかった。

一度死ぬこと、象徴的な死に対する憧憬が自分の中に存在することは確認したが、其の快感ばかりでは当然なく、生きる意味の消失・退屈・無価値感がいまより遥かに増すんだなってことが確かになった。

それとて先延ばしにしてるから直視しなくていいだけでいずれは目の前にごわんと立ちはだかる。そのときに俺はあの日そのまま失敗していれば、と思うのだろうか。

 

 

 

先日、バーのマスターに本を借りた。カウンターに置いてあったやつだ。その人の本棚はその人自身より多くを語る。

特殊な場所、偶然ではなかなかたどり着かないような場所で出会った人たちが言葉を交わさずとも通じ合える、またはそのような気になれるのは似たようなところに理由があるかもしれない。

 

 

 

暇だと俺は金を使う。大して食いたくないものを食い、大して行きたくもない場所で金を払って過ごす。銭湯だってあの温度の落差による快感があるから例外みたいな扱いになっているけど、そもそも行く理由は暇だからだ。暇に目を向けるのが怖いからだ。銭湯に限らず俺の行動のほとんどは暇や己の無価値感、退屈から逃れたいだけで、そのもの自体には大して興味なんてないんだ。

それいったら子供を育てることとか仕事すること、誰かと付き合うこととか全部おのれの空洞に目を向けないための道具でしかないんじゃないかなんて。

 

それってようは人生死ぬ目での暇つぶしってことでしょ?って言われるとちょっと違う気がする。

第三のビールのまずさの正体

最近散在が激しいので食事はなるべく自炊でやることにしている。というかしたい。

ものの、今日のは味噌汁が塩辛すぎて食後のどが渇きに渇いたので炭酸を買いにスーパーまで。お目当ての本搾りオレンジがなくなってたので麦とホップを。


家まで我慢できずに店出た瞬間プルタブを上げる。
外の気温もぬるいせいか美味い。ただ家についてちょっとだけやんやしてもう一度残りを飲むとそりゃもう不味い。さっきと明らかに味が違う。

前からうすうす気づいてたけど第三のビールは炭酸の抜ける時間が本物より絶対早い。第三のビールは炭酸があるうちは本物に近い風味を出してるものの、抜けるといっきに偽物感がアピールをはじめる。なんか安っぽいし体にもよくなさそうな味。はっきり言って不味い。

どうしてこうも炭酸が抜けやすいのか。それすりゃ何とかなれば割とずっと第三のビールでも問題ないとまで思えるかもしれない。使ってる原料の違い的にどうしようもないんだろうか。

結局

自分にしか興味がない。
まわりの世界の物事で興味あるように振る舞ってるものも結局それが自分に与える与えられる影響に興味があるだけだ。
自分から近いものだと容易に自己肯定とかできたりしがちだから興味湧くし自分から遠いものについても、その遠さが普段の自分の枠から解放してくれるから興味が湧く。結局いつもそうなんだ

そう考えると好き嫌いの話なんて恥ずかしくってできたもんじゃねえ

最近

結局何も変わってない
些細な態度の変化に一喜一憂し感情のハンドル完全に奪われたまんま

違う部分にシフトしていかなきゃまずい
でも俺にはやっぱり何の価値もない

飯食ってクソして寝るだけの、非生産的動物


でも思ったのが一つ前の投稿から一ヶ月半くらい経っているということ。こういう不安定な気分の時、時間の流れは速く感じられるのだろうかそれとも遅く。

二月なにしてたかとかほとんど覚えてない