頭の中がうるさい

散歩とか音楽とか

自分が自分であるということにひどくうんざりしてしまう

自分の選んだ行動、付き合った人たち、選んだコミュニティ、そこでの肩書、そういうもので自分が出来上がってしまう。無為に生きた今日が明日を作りその積み重ねで長い年月が出来上がってしまう。ただただ生きているだけで何かを選び何かを捨てて、そういうものが自分に絡みついたり足元に積もっていったりする。

全部なかったことにしたくなる時がたまにくる。もうこの自分はやめにして違うやつでやってみようなんて。もちろんそんなことできるわけない。自分の犯罪歴は消えないし家族は家族のままだし、人と関わってしまった事実は消えない。

 

でも自分にはどこか、こんな自分の人生が取り替えのきくようなものだと思っているフシがある。明日になったら違う街の違う誰かになって生きてられるんじゃないかっていうような。

 

自分より結構年上の大人と話しているとそんな気持ちがぶっ否定されて冷水を浴びせられたような気になる。こんな自分の人生がこの先何十年もどうしようもなく続いていくんだと、この自分でずっとやっていくしかないんだと、こうやって現実を直視したくない自分の延長線上に未来の自分が確かにいるんだと。そんなことが改めて認識されてひどくうんざりしてしまう。

 

もしかすると自分の人生に対するお客様感は死ぬまで消えないかもしれない。自分の人生はいつ始まるんだろう、なんて思ってるうちにジジイになって死んでしまうんだ。

何がしたいのかいよいよわからない。

やってよかったと思うことをほとんどしていない気がする。自分や他人を軽んじた行動、自分を嫌いになる行動ばかりとっている気がする。


やるべきことはあるがやりたいことはない。やりたいことはやるべきことをやっているうちに見つかるものかもしれない。これまでの経験的にはそういう場合が多かった気がする。


とはいえ実際に行動に移すことはない。穴の空いたバケツに水を流し込む日々

最近は極めて低俗な日々を送っている。しこってやって酒飲んで、YouTube死んだ目で見て、くそみたいなまとめサイト読んで。

なにも成長したきがしないし成長ってなんだよ何か目標があってやった行動でもない。今の目標というかもっとこうなりたい、こうありたいっていう部分を満足させるための行動を代わりに取るようになれば夜寝る前の罪悪感もなくなるのだろう。

たとえば純文学読むとか芸術映画みるとかしてる場合はそれも結局端から見れば暇潰しでしかないのに関わらず罪悪感を感じにくいんだけどそれは俺がそういうものに詳しい人に憧れのようなものを抱いてるからなんだろう。しょうもない。

旅に興味がなくなったわけじゃない

ここしばらく、どこか遠くにふらっと何日か出かけることがなくなっていた。

自分が大人になったのか、とか内面に変化が起きたのかとか思っていたけどなんのことはない。ただストレスを感じていなかっただけだ。

今日、ほんの些細な嫌なことがあった。ほんとに大したことない、普通ならすぐ忘れてしまうようなことなのかもしれない。でもそのせいで何だかずっと嫌な気分になっていろんなものと距離を置きたくなった。その中で久々に旅に出たいと感じた。行き先はどこでもいい。今いるここじゃなくて、あんまり人がいなければどこでも。笑っちゃうくらい当たり前の話だけど俺は一ミリも成長なんかしていなかった。