朝六時台に目が覚めてしばらくベッドの上でスマホをイジるなどした。今日やろうと思っていたことは結局何もしなかった。
スラックスの裾上げ
ローラー買いに行く
銭湯とファミレス
日記をつけることをしばらくやめた結果どうなっただろう
あまり本を読まなくなったか。たぶん無反省になるからだろう。禁欲的でない、なまぬるい日々
そういえば割りと人生変わるかもっていう重大なイベント(それ自体は悪いヤツ)が起きようとしたけど起きなかった。
一度死ぬこと、象徴的な死に対する憧憬が自分の中に存在することは確認したが、其の快感ばかりでは当然なく、生きる意味の消失・退屈・無価値感がいまより遥かに増すんだなってことが確かになった。
それとて先延ばしにしてるから直視しなくていいだけでいずれは目の前にごわんと立ちはだかる。そのときに俺はあの日そのまま失敗していれば、と思うのだろうか。
先日、バーのマスターに本を借りた。カウンターに置いてあったやつだ。その人の本棚はその人自身より多くを語る。
特殊な場所、偶然ではなかなかたどり着かないような場所で出会った人たちが言葉を交わさずとも通じ合える、またはそのような気になれるのは似たようなところに理由があるかもしれない。
暇だと俺は金を使う。大して食いたくないものを食い、大して行きたくもない場所で金を払って過ごす。銭湯だってあの温度の落差による快感があるから例外みたいな扱いになっているけど、そもそも行く理由は暇だからだ。暇に目を向けるのが怖いからだ。銭湯に限らず俺の行動のほとんどは暇や己の無価値感、退屈から逃れたいだけで、そのもの自体には大して興味なんてないんだ。
それいったら子供を育てることとか仕事すること、誰かと付き合うこととか全部おのれの空洞に目を向けないための道具でしかないんじゃないかなんて。
それってようは人生死ぬ目での暇つぶしってことでしょ?って言われるとちょっと違う気がする。