頭の中がうるさい

散歩とか音楽とか

何人かの知り合いからちょっと突っ込んだ話を聞いた。


なんか色々感じたことはあったけどとにかく疲れてしまった。あまりなにも考えたくない。意味のないものに浸りたくなった。

大盛り聖子がヨギーに怒ってた件とかも何個か記事見たけどすごく疲れる。人の内面、それも特に怒りとか嫌悪とか嫉妬とかにまみれたものを見るのは疲れる。仮に共感できたとしても。





やっぱり俺は器が小さい。愛が先か受け入れが先か。とにかくなにもモノを言える立場にない。資格がない。

昔の自分のブログを読んだ

マックの帰り、購入したてのナイトライダーを聴いてたらsちゃんを中心に昔のガールフレンドのことが思い出されて、その流れでライブドアでやってたブログのことも思い出した。

なんとかパスワード思い出して一年以上ぶりに読んでみた。

 

だいたい去年幸せになってきた頃までのことが、完全に日記調に書いてあった。昔の俺は今よりちょっと良い奴っぽかった。少し素直で。就職とかそういう現実の大きな問題からまだ目を背けてられる時期だったからだろうか。そこにある不幸にも逼迫感そして当たり前だけど現実のにおいがなくて40とか過ぎたおじさんが昔を思い出して俺達が学生の頃はなーなんていうときのいわゆる学生、なんの重荷も背負わされてない人間の軽さが文体に現れていてすでに懐かしかった。

今日ちょうど平野啓一郎の分人についての文章を読んだけど一年前の俺も今の俺からするとすでに別の分人だった。ただただ日々生きているだけで俺は分人を失くしていく。分人を失くす悲しみはや切なさはいつまでも続くのに、これから獲得する分人になんの期待も楽しみも感じられないのはどうしてだろう。

 

 

僕らはといえば遠くを眺めていた

日だまりに座り若さをもてあそび

ずっと泣いていた

ずっと泣いていた

気持ち悪い

自分は他人からエネルギーを奪って生きる妖怪のようなやつだ。

今日も人を傷つけた。その子は別れ際笑ってくれてたけど内心は不安と悲しみに満ちてたかもしれない。
そうすることがどうしていけないのか、考えてもはっきりとした答えはでない。ただ、この問いが出る時点で自分が人を傷つけていると無意識に気づいているわけで何よりこの胸から溢れる後ろめたさ、罪悪感がすべてを語っている。

自分は明らかにこれまでの人間関係においてギブすることが少なかった。自分の方がシーソーゲームの下にくることはない人間関係ばかりを築いていた。


今は悪いことをしたてだからかひどく心が弱っていて罪滅ぼしを御祓をしたくてしょうがない。そうすることで気が楽になるかはわからないがとにかくやってみようと思う。謝ったりするだけではなく何かしら善意を与えることがこういう時意味をもつのかもしれない。ただ、悲しい哉、今まで人に与えてきたことがないだけにどうすれば良いか分からない。


混乱した頭を抱えて住宅街を通ったとき、ふと目にした普通の家族の普通のやりとりがどうしようもなく胸に来て今はなんだかひどく感傷的な気分だ。

外は2℃ 白い冬

とん水が閉店してしまった

久々に下北に行った。一番街を歩いていると見慣れた看板が何故か反対側の店の前にあった。訳がわからず本来あるべき方向を見ると暗い。今日は定休日でもないはずなのに。



入り口の前には10月の末で店を閉めることになったことが達筆で記されていた。45年のご愛顧ありがとうございました。みたいなことが書かれていた。


特に常連だった訳ではないし食べたことあるメニューも本の一握りだった。だけど、あの空気感、温度には特別なものだった。女の子と行ったこともあったけど、基本的には一人でどうしようもなく家へ帰りたくない夜に行くことが多かった。他のお客さんも大抵若い男で勝手に境遇を重ね合わせたものだ。

寂しさは大抵夜に来る。季節でいったら冬だ。冬の夜に行くことの多かった僕は

BABY BABYとパーフェクトレボリューション

予告編の清野菜名の演技に(いやあれはただの器用な演技ではなくてあの人そのものの要素も強い気がする)心を奪われてすぐに近場の上映館を探した。その日はもう夜も遅かったので翌日の上映に行くことにした。

 

予告編が先にできてその後に本編が作られたのかと思うくらいなぞったような展開だったり、ところどころ話がうますぎたりと、引っかかる部分がないとは言えなかったが基本的に予告で受けたいい印象のままだった。ミツが本当に良かった。生命力に溢れていて嘘くささがなかった。

 

そしてやっぱりBABY BABYは本当にいい曲だ。リリーが原案の熊篠さんに劇中で使うことを勧めたか頼んだかしたらしいが本当に映画にマッチしていた。そして多分クマの気持ちにとてもマッチしていた。サビの”抱きしめてくれ〜”は男が歌う歌詞としては少し珍しいなとか初めてこの曲を聞いた中学生のとき思っていたが、世の中には愛する人を抱きしめたくても抱きしめられない人もいるのだ。「僕が何度きみを抱きしめたいと思ったか君はわからないだろう」曲の最後に歌われるこの歌詞も含めると本当にクマのために作られた曲みたいにしっくりくる。熊篠さんはこの曲の存在を前から知っていたのだろうか、もし知らなかったとしたら今回はじめて聞いてエラく感動したんじゃないだろうか。シザーハンズエドワードもこの曲を聞いたら泣いちゃうと思う。

 

もちろん峯田がこの曲を書いたのは映画ができるずっと前だし他の解釈もできる、というかいろいろな形で聞くことができるのがこの曲の優れた点の一つだろう。そもそも相手との関係的に抱きしめられるような距離になかったり、クマみたいに肉体的に叶わなかったり、関係的にも肉体的にも抱きしめられるけど、愛するものに対してBABYBABY的感情を抱くことだってあると思う。

だって、思うに、どれだけ愛を伝えたとしても自分の中に生じている愛情をすべて相手にぶつけることは不可能だ。言葉はすべてを表すことができるような完璧なものじゃないし体という枠に縛られている以上感じ方はどの人間間においても一致しない。誰かを愛し尽くしたなんて感覚を持てる人はいないだろう。そして、その愛の伝達の不可能を埋めるためにこの曲は作られ、もっというと芸術はこれまで作られてきたんだと思う。

 

 

ここのところ雨が続いている。傘をさしながら深夜のファミレスへ向かう途中、イヤホンで大音量でこの曲を聞いた。久々に心が動いているのを感じる

 

可愛い女の子との恋愛と銀杏BOYZの音楽のほかは消え失せたっていい、醜いんだから。

 

 

 

 

 

悲しみは消えてない

昨日夢を見た。
下北を歩くあの娘とすれ違った。
突然の再会に驚きつつも、スッキリとした顔でMAXの65パーセントくらいの愛嬌であの子は僕の名前を呼んだ。
隣には、爽やかに日焼けして人の良さそうな男の子がいた。
なんとか明るいトーンの声で「久しぶり」と返すことができた。
それですぐ別れた。

その後のことははっきりと覚えてないけど、とにかく涙が止まらなくなった。周りの人がいようがどうすることもできなかった。ダメになって以来一度も泣いていなかったのに。

やはり、本当は悲しかったのだ。あの子のことが好きだったのだ。


でも純度100パーセントの悲しみは、もう現実の世界では感じることができない。

これからも世界は色を失い続ける。