頭の中がうるさい

散歩とか音楽とか

楽しいことなんて好きじゃない

これ楽しいよとか、面白いよとか勧められても全然興味持てない。今までエンターテイメント映画とか大衆小説に触れて楽しんだことないのかとか聞かれたとしたらそりゃもういくらでもあると答えるけど自分の普通な欲望に従って映画とか本選んでたらまずその手のものを手に取らない。旅行に行ってもじゃらんのランキングに載ってるような観光地をよくあるコースで回って良いなと思ったことなんてない。良いなっていうのがポイントで楽しいかどうかではない。そもそも旅行に楽しさなんて求めてない。どういう風に旅行したとか人と話してる時にある程度素直に答えると大概そんなことして況してや1人でそんなことして楽しいのとか淋しくないのとか聞かれるけどそもそもそういうものに興味がないのだから会話が成り立たない。旅行は何をするかではなく誰と行くかだとか、1人で食べる飯は味がしないとかよく言われるけど旅行で何をするか何をしないかは重要だし1人で食っても飯はうまい。相手が考える旅行像と僕の考える旅行像はあまりにもずれがありすぎる。旅行という言葉自体ふさわしくないかもしれない、僕のはだいたい漂流か逗留もしくはそれらを同時期にやるかだ。そこにはいつも退屈がある。退屈と軽い絶望とあるタイミングでくる軽やかな解放感の中でだいたい生きている。そんなものに人を付き合わせるわけにはいかない。仮に気があう人と一緒でもさすがにあんまりだろうというような旅の1日はいくらでもある。


何かを対象として自分と切り離して扱ったり楽しむこと悲しむことに抵抗があるのかもしれない。全ては自分の延長で自分は全てに包まれていて自分も何かを包んでいる。そのような感覚が感じられないものにあまり食指が動かない。たぶん自分の内側とか自分と世界の関係に興味がありすぎる。何かを選んだりどんな行動をとるかの基準に楽しいかどうかとか面白いかどうかが浮上してくることはあまりない。エンターテイメントはやっぱりどこかインスタントで、どこかなんてものじゃないか、ほとんどそうだそれが自分の中に波を動かしたりすることなんてほとんどない。見たそばから腹の減りに興味が自然とシフトするようなものをたくさん見ようとする人の気持ちもたぶんあまりわからない。そういう人たちにとっての日常は僕のそれとどう考えても色が違う。時間の過ごし方が違う人と一緒にいるのは苦しい。どこか空虚で、これもだけどどこかなんてもんじゃ



そういう質問にはたまにはそういうのも面白いとか1人も面白かったりするんですよーだよーなんて答えてるけど全然たまになんかじゃない。どうしようもない変わり者と思われるのが嫌なだけで自分のイメージを持ち直そうとしてるだけだ。どこかに行くとか何かをするとなった段に誰かが心に浮かんでくることがそもそもあまりない。まあそれは最近変わりつつあるけど、ごく限定的に、例外的存在として。