頭の中がうるさい

散歩とか音楽とか

合宿1日目

今日は合宿の1日目だ。合宿と言ってもしんどい方の合宿。しんどいと言ってもそのしんどさは様々で、やる作業自体のしんどさと朝無理矢理起こされて決まった時間に飯を食わされるしんどさと、どこにいっても人がいる逃避場のなさからくるしんどさと色色だ。
作業自体のしんどさはおいといて他のは人によってはしんどくなかったり、外向的な人にとってはむしろ魅力的な環境なのかもしれない。


人と一緒にしんどいことをするのが嫌だ。自分一人でしんどいことを自分で方法とか考えつつ遂行することはそんなに苦じゃない。これまで言った旅行でも人と一緒ならこんなこと絶対きつくてやってられないな、という旅はたくさんある。一人だから頑張れるのだ。
みんながいるから頑張れる!とか一人はみんなのためにみんなは一人のために!とか考えただけで耳にしただけで息が苦しくなる。


これから毎日息苦しさが続くのかと考えるとお先真っ暗な気分だ。と言っても今日はまだ何もしんどい作業自体はやってない。おまけに今日の話し合いでチームプレイにおいて一番大事な役目を与えられてしまった。お先は漆黒の闇である。

明日の夜はどんな気分なんだろう。逃避道具をたくさん用意すべきだった。迂闊だった。

すでに夜と霧を読みたい気分

ドグマチールでちんぽがたたない

常用し始めて三カ月強、ちんぽが勃たないというか性欲自体がなくなてしまって性行為に義務感を感じるようになってしまった。



性欲がなくなるということ

性欲が当たり前にいつも自分の中に存在していた頃には想像もつかなかったのだろうけど性欲がなくなるということにはあまり自覚を持てない。

「あ、なくなってきたなー」なんて感覚はなく、気づけば女の子とかセックスへの興味がなくなっているのである。セックスなしで会いたいと思えない子にはマジで会う意欲がなくなる。俺の心と言うよりチンコが会いたがってたんだなーと納得する。

 

 

性欲がなくなることには実は前から憧れがあった。人並みに性欲がある人なら共感してくれるはずだが男の性欲というものはいろんな生産的活動の妨げになる場合がある。ただじっさいに無くなってしまうとそれはそれで困るのである。

 

今僕のまわりにいるパートナーたちはそれほど性欲がある方ではない。ただいざ事が始まり僕の不能が明らかになるとやはり気まずいというか微妙な空気を感じずにはいられない。

 

 

性欲に振り回されないのはいいことかもしれないが新規の女の子たちとの可能性を失うだけでなく今いるパートナーをも失うことになるならたぶんプラスでもないというかむしろマイである。

 

 

 

胃の調子と性生活はトレードオフなのかもしれない。

誰でもなんでもいいから俺の人生勝手に決めてくんねえかな

いまいろんな人生における大事な選択肢が自分の中にあってそのうちのいくつかは近々答えを出さないといけなくてそのうちのどれか一つにすら真摯に向き合わず徒につれづれ日々を過ごしている。

 

 

昨日「そこのみにて光輝く」の映画を観た。映画自体の内容は鬱屈してて基本的に救いがないんような感じでそれもまあ良かったんだけど地方の生活感とか主人公の自分の人生に対するお客様感になんとも惹かれてしまった。

 

映画の中でもあったけど、知らない町で肉体労働して稼いですぐに他の街に移ってそこでまた働くっていう生活に対する憧れがある。嫌な仕事でも嫌な上司でもすぐにオサラバする前提で対していればきっと我慢できる。お客様感があれば所詮はいろんな悩みも他人事だからだ。責任のなさ、プライスレス。

 

自分の人生に絶望するのは大抵他に選択肢が何もないって感じるとき。最初からいくらでも選択肢がある中から仕方なく選んだっていうスタンスでいれば人生に悲観的になることはないんじゃないか。

 

でもそう感じるのはたぶん俺が安定した幸せにもともとあまり興味が無いからで、幸せ=家族に囲まれ穏やかに過ごすって感覚の人は共感できないんだろう。

 

そもそも俺とて本当に旅とか放浪に絶対的な価値を置いてるかどうかわからない。もっと年を取ったら安定した生活を強く求めるのかもしれないし、旅欲も結局逃避願望でしかないのかもしれない。てか逃避願望であることは確かなんだけど逃避願望が欲求としてどれほどの順位にあるのかがわからない。

 

 

 

でもとにかく今は誰かに勝手に人生決められてとりあえずあの町でマグロの解体やって過ごすことになったり、その町もまた出ていくことになって行商でもやることになったりしたい。自由意志を奪われたって、逃げる自由さえ確保されていたらどうにかこうにか生きていけそうな気がする。

 

やっぱ色々考えるのってめんどくせえよ

書かないと文章力は落ちる

とか思ったけどそもそも文章力なんか微塵もなかった。

 

 

最近は何を考えているのか。一貫して考えていることはないようなきがする。毎日、その時時の状況に応じて快不快の快だけを選んで最近は生きている。ここに三日は時にそうで、これと言ってやるべきことがなかったから、何かを読んだり観たりして過ごしたけどその一つ一つに集中することはできなかった。

 

膨大に存在する自由な時間の中で聴きたいものを聴き、読みたいものを読み、食べたいものを食べる生活が理想的だという思いがいつもある。でもそう思うのはいつもそういう世界の外側にいるときだ。じっさい学校の長期休みとかには決まって何もせず無為に過ごし直接的に有意義な勉強とか訓練とかはもちろん小説読んだり映画見たり、感性使ってやる何かすらやらないことがほとんどだ。

 

普段行動する上でいつも思うのはなるべく自発的でいよう、外側から与えられた価値があるように見えるモノにはあまり飛びつかないでいようってことなんだけど、内発的な欲求なんか俺の中にはないのかもしれない。今好きなもの(小説とか旅とか)も普段の生活があるからこそ相対的に魅力を感じているだけで、普段の生活におけるやるべきこととか考えないといけないことが何もなかったとしたらやりたいことも何もなくなってしまうんだと思う。そうなったらもう動物だ。

動物になりたいとかたまに思うけど、もう今更なれないし人間だし人間である以上常に何らかの行動を求めてしまうんだろう。

 

 

またなんか書き始めと違うこと書いて終わってしまった

あの人の夢を見た

昔バイト先にいたあの人の夢を。

あの人のおじいさんとあの人が出てきて、おじいさんが居酒屋か定食屋かその両方みたいなお店をやっていたのでご飯を食べさせてもらうなどした。他にも色々したはずなのだがもう忘れてしまった。
僕もあの人もまだ思春期くらいの子供で、お互いの世界は今よりもっとシンプルだった。そこにはまだ
意地悪な白鳥も口うるさいカレンダーもいなかった。世界は今見ている世界がすべてであらゆるものは完璧な円の中で回っていた。
昔のあの人にあったことはない。ただ 昔の記憶を共有できたような感覚が残った。

目が覚めたときには外を雨が降っていて空は暗く、朝なのか昼なのかも分からなかった。

夢を見て起きたとき、雨が降っていると夢の余韻に長く深く、良く浸れる気がする。
今日は一日、夢のおかげでほんのりとした幸福感が僕をずっと包んでいた。

奥の細道を歩いている

昨日は元自衛隊のおじいさんに道ばたでいなり寿司と菓子パンとチョコレートをもらった。ありがたくいただいた。


毎日は宿に泊まらないので困るのが電源問題だが田舎のコンビニは今はたいていイートインスペースがあってコンセントが使える。田舎のコンビニ万歳である。

今はファミマでコーヒーとパン食べながらこの記事を書いている。外は雲一つない快晴、ひっきりなしに車が走る国道。何が楽しくて徒歩なんてやってるんだという気分になる。

これだから国道はいけねえ。歩くときはやはり歩きにあったスケールの道を選ばないと、といってもなかなか幹線道路以外の選択肢を選びがたい現状もあるのだが。
今やりたいのは川上りだ。小さな舟で流れの緩やかな川をゆっくり上りたい。

20230705加筆
前提として奥の細道全ルートを歩いたわけではない。
自分が歩いたのは、仙台〜石巻岩手県平泉までの120−130㎞だけだ

1日目:仙台駅〜石巻
夜行バスに乗って多分朝7時くらいに仙台駅に着いた。
駅前の半田屋でカツ丼を食べた。
国道沿いの道が続きつまらないなあと思っていたが
途中から自然の多いルート、川や田んぼの間を抜けるルートになって旅情が増してきた。
自衛隊のお爺さんにいなり寿司をもらった坂を抜けると団地があって間を川が流れていた。
多賀城をみて文化財の学校みたいなものも見て寺か神社を見ておまけに図書館にまで寄った。

ちょっと寄り道しすぎたところもあり塩釜から石巻まで電車に乗った。

2日目
石巻石巻
旧北上川沿いを歩いて北上した。
団地みたいなところを抜けて何かを思った。
途中から川を離れてミニストップで休憩、国道を北上。
日が暮れてきたので北上川の河川敷でテント泊。
石巻は治安が悪く暴走族も多いと聞いていたためテン泊場探しに少し迷って
川のすぐ近くのススキかなんかで囲まれた周りから見えないスペースにした。
焚き火を少しして寝た。
不安もあったためかあまりいい眠りでなかったたおもう。

最近というか今日

朝六時台に目が覚めてしばらくベッドの上でスマホをイジるなどした。今日やろうと思っていたことは結局何もしなかった。

スラックスの裾上げ

ローラー買いに行く

銭湯とファミレス

 

 

日記をつけることをしばらくやめた結果どうなっただろう

あまり本を読まなくなったか。たぶん無反省になるからだろう。禁欲的でない、なまぬるい日々

 

そういえば割りと人生変わるかもっていう重大なイベント(それ自体は悪いヤツ)が起きようとしたけど起きなかった。

一度死ぬこと、象徴的な死に対する憧憬が自分の中に存在することは確認したが、其の快感ばかりでは当然なく、生きる意味の消失・退屈・無価値感がいまより遥かに増すんだなってことが確かになった。

それとて先延ばしにしてるから直視しなくていいだけでいずれは目の前にごわんと立ちはだかる。そのときに俺はあの日そのまま失敗していれば、と思うのだろうか。

 

 

 

先日、バーのマスターに本を借りた。カウンターに置いてあったやつだ。その人の本棚はその人自身より多くを語る。

特殊な場所、偶然ではなかなかたどり着かないような場所で出会った人たちが言葉を交わさずとも通じ合える、またはそのような気になれるのは似たようなところに理由があるかもしれない。

 

 

 

暇だと俺は金を使う。大して食いたくないものを食い、大して行きたくもない場所で金を払って過ごす。銭湯だってあの温度の落差による快感があるから例外みたいな扱いになっているけど、そもそも行く理由は暇だからだ。暇に目を向けるのが怖いからだ。銭湯に限らず俺の行動のほとんどは暇や己の無価値感、退屈から逃れたいだけで、そのもの自体には大して興味なんてないんだ。

それいったら子供を育てることとか仕事すること、誰かと付き合うこととか全部おのれの空洞に目を向けないための道具でしかないんじゃないかなんて。

 

それってようは人生死ぬ目での暇つぶしってことでしょ?って言われるとちょっと違う気がする。